ロイド・ブリッジスが演じる「潜水王マイク・ネルソン」やクストー船長の「カリプソ号の冒険」をモノクロTVで観て少年時代を過ごした私が、やがて“アメリカ”と“ダイビング”に憧憬を抱くのはきわめて自然なことだ。大人になった私が、憧れのアメリカの都市の名前を持つ船と出会うことになったのは2005年の春、フィリピンのスービックを訪れた時である。その時は、後に毎年のように、この透明度の悪いシルト の海に通うことになろうとはまったく予想もしなかったのだが。
車でノース・ルソン・ハイウェイを北上し、途中SCTEX(スービック・クラーク・ターラック・エキスプレスウェイ)に乗り換えて西に向かうと、マニラから2時間でオロンガポ州スービックに着く。今では自由貿易特区として栄える街となったが、かつては米海軍が駐留し、近隣のクラーク空軍基地とともに東西冷戦とベトナム戦争時代にはアジアの重要な戦略拠点として機能していた。
ベトナム戦争が終わり、80年代後半にそれら2つの基地が撤退し、現在はマニラ首都圏に住む人々の週末の観光地として賑わう。ちょうど東京近郊に住む人にとっての伊豆や箱根に近い存在と言えるだろう。観光地と言っても、ダイバーには潜るべき理由のあるダイブ・サイトがなければ、毎年通うことなどはない。そう、スービック湾はレック・ダイビングを楽しむ場所として、そしてテクニカル・レック・トレーニングとその経験を積むにはもってこいの場所なのだ。
水底に厚く堆積した火山灰で、お世辞にも透明度が高いとは言えない湾内には複数のレックが点在する。艦船の種類、サイズ、水深、損壊の状況、安全度、つまり潜在する危険の度合いに応じてダイバーの様々な要求に応えてくれる。技量、知識、経験、胆力などレック・ダイバーとして高い熟達度を試される「USSニューヨーク」を筆頭に、深度18mの輸送船「エル・カピタン」、30mに沈む戦車揚陸艦「LST」 、さらにレック・ダイビング・スキルの最初の手ほどきを受けるのに最適な、ホテル「ヴァスコス」のレストランのすぐ目の前の水深8mに沈めた双発ジェット輸送機「コンヴェア340」など、ビギナーから経験豊かなレック・ダイバーまで飽きさせることがない。したがってアメリカ海軍駐留時代には、これらの沈船群がUDT やネイビーSEALs の演習場として使われることもあった。
“USS”という艦船接頭辞は、”United States Ship”の略、「アメリカ合衆国の艦船」を意味する。憧れのアメリカの都市名を持つ米海軍戦闘艦USSニューヨークは、1891年にフィラデルフィアで進水した全長115m全幅20m総排水量8,150t、500名を超える乗員と指揮官が搭乗する当時最新鋭のCA-2型重巡洋艦である。
USSニューヨーク号はアメリカ・スペイン戦争を振り出しに、第1次世界大戦、途中、サラトガ、ロチェスターと2度の改名を経て、第2次世界大戦開戦直後のクリスマスにスービックの港でその数奇な運命を閉じることになる。1941年12月25日、アメリカ太平洋艦隊旗艦まで務めた長い戦歴と無傷を誇った彼女は、真珠湾の勝利の勢いに乗って太平洋を南進する旧日本帝国海軍の手に渡らないように、シンガポールに撤退するアメリカ海軍自身の手で仕掛けた3発の爆薬によって、南国の冬の夕焼けに染まるスービック湾の中央に沈んだ。
建造後120年、沈没後70年を経過した今も、彼女はひっそりと水深27mの水底に眠る。1991年のピナツボ火山の大噴火によって10m以上の厚さに堆積した火山灰の海底に、左舷を下にした横倒しの状態で、艦橋の前後に装備した8インチ2連装回転砲塔の半分まで泥に埋没させてダイバーを迎える。
潜降して水深23m、後部甲板の8インチ砲身のすぐ上で、バディのファーグが先に残圧計を確認した。80cf ツィン・シリンダーの残圧は共に190Barある。前もって打ち合わせたロック・ボトム の40Barを差し引く。ターンプレッシャー の100Barをお互いに手信号で伝え、すぐに予備のライトと2本のナイフ、スプール とノートのある場所、背中の3カ所のシリンダー・バルブが開いていることを確認する。私が「俺たちのSCR ならこのペネトレーションを15分は楽しめる」と計算している間に、ファーグは左腿のポケットからスプールを取り出してジャンプ・ライン の始点を一抱えもある8インチ砲の砲身に巻き付け始めた。
今日のライン・マンは英国人の彼が務める。ファーグは振り返りながらライトで私に合図を送り、ラインを引きながら砲身の下の開口部に侵入した。私は少しだけ距離に余裕を持たせて後に続き、彼がタイ・オフ した箇所を確認しながらさらに進む。少し後ろから間合いをとり、直径5mmほどのクレモナ製のパーマネント・ラインにジャンプ・ラインを連結しているファーグの手許をライトで照らしてサポートした。
内部に入るとすぐに、体をひねって前屈しなければ通過できない、ドアに阻まれた狭い通路に出る。通過した後、いつもの手順通りに左のシリンダー・バルブを触って閉じる方向に動いていないかをチェックする。先頭のファーグは、パーマネント・ライン沿いに、フィンを使わずフィンガー・クロールだけで無音のグライダーのように移動する。私は、“モワッ”としたベージュのインクが漂う視界の中を、先行する彼のライトが放つ滲んだ光の後を追う。目を閉じて「ゆっくりと、落ち着いて呼吸を保て、左手に感じるラインの感触に意識を集めろ」と自分に言い聞かせた。
狭い通路の移動の後、目的のエンジン・ルームに到達する。ファーグは楽しみの内部散策のために、もう一つスプールとアローを取り出してセーフティ・ラインを用意した。「OK、準備は万端だ、行こうぜ相棒」ダイバーがほとんど入ることのないチャコール・ルーム で遊んでいると、突然、自分たちの排気泡で、上から赤錆び混じりの大量のシルトが降り注いで視界ゼロとなる。いつもより1オクターブ高いキィで“ドコッ、ドコッ”と鳴り響く心臓の鼓動を聴きながら、ラインを維持したまま反転して、タッチ・コンタクトとバンプ・アンド・ゴー で出口に向う脱出行が始まる。
テクニカル・レック・トレーニング、すなわち内部侵入と加速減圧を伴う沈船ダイブ・トレーニングは、ダイバーに豊富で様々な経験を積ませ、スキルを研ぎ、チームの統合意識を鍛え、そして洞察力と状況判断力を育てる。とりわけ彼女は戦闘艦であるが故に、肉厚の鉄鋼で鍛えた頑強な構造をもち、通路は狭く複雑に入り組み、内部は錆びた金属の突起物や瓦礫が散乱し、加えて堆積した火山灰に埋れた濁り易い環境なので格別である。
ファーグと私は、USSニューヨークへのペネトレーション・ダイブだけで27回目のバディを組む、気心の知れたチームだ。我々は予備の脱出口に出て、右舷側の深度18mに常設した係留ラインにステージした酸素シリンダーを回収して浮上を始めた。6mで予定通りの加速減圧を終えた頃、過去の熾烈な戦闘で命を落とした先人達に、無言で鎮魂の言葉を贈った。
(※月刊ダイバー2013年2月号「世界レック遺産2」への寄稿記事の原文です)
車でノース・ルソン・ハイウェイを北上し、途中SCTEX(スービック・クラーク・ターラック・エキスプレスウェイ)に乗り換えて西に向かうと、マニラから2時間でオロンガポ州スービックに着く。今では自由貿易特区として栄える街となったが、かつては米海軍が駐留し、近隣のクラーク空軍基地とともに東西冷戦とベトナム戦争時代にはアジアの重要な戦略拠点として機能していた。
ベトナム戦争が終わり、80年代後半にそれら2つの基地が撤退し、現在はマニラ首都圏に住む人々の週末の観光地として賑わう。ちょうど東京近郊に住む人にとっての伊豆や箱根に近い存在と言えるだろう。観光地と言っても、ダイバーには潜るべき理由のあるダイブ・サイトがなければ、毎年通うことなどはない。そう、スービック湾はレック・ダイビングを楽しむ場所として、そしてテクニカル・レック・トレーニングとその経験を積むにはもってこいの場所なのだ。
水底に厚く堆積した火山灰で、お世辞にも透明度が高いとは言えない湾内には複数のレックが点在する。艦船の種類、サイズ、水深、損壊の状況、安全度、つまり潜在する危険の度合いに応じてダイバーの様々な要求に応えてくれる。技量、知識、経験、胆力などレック・ダイバーとして高い熟達度を試される「USSニューヨーク」を筆頭に、深度18mの輸送船「エル・カピタン」、30mに沈む戦車揚陸艦「LST」 、さらにレック・ダイビング・スキルの最初の手ほどきを受けるのに最適な、ホテル「ヴァスコス」のレストランのすぐ目の前の水深8mに沈めた双発ジェット輸送機「コンヴェア340」など、ビギナーから経験豊かなレック・ダイバーまで飽きさせることがない。したがってアメリカ海軍駐留時代には、これらの沈船群がUDT やネイビーSEALs の演習場として使われることもあった。
“USS”という艦船接頭辞は、”United States Ship”の略、「アメリカ合衆国の艦船」を意味する。憧れのアメリカの都市名を持つ米海軍戦闘艦USSニューヨークは、1891年にフィラデルフィアで進水した全長115m全幅20m総排水量8,150t、500名を超える乗員と指揮官が搭乗する当時最新鋭のCA-2型重巡洋艦である。
USSニューヨーク号はアメリカ・スペイン戦争を振り出しに、第1次世界大戦、途中、サラトガ、ロチェスターと2度の改名を経て、第2次世界大戦開戦直後のクリスマスにスービックの港でその数奇な運命を閉じることになる。1941年12月25日、アメリカ太平洋艦隊旗艦まで務めた長い戦歴と無傷を誇った彼女は、真珠湾の勝利の勢いに乗って太平洋を南進する旧日本帝国海軍の手に渡らないように、シンガポールに撤退するアメリカ海軍自身の手で仕掛けた3発の爆薬によって、南国の冬の夕焼けに染まるスービック湾の中央に沈んだ。
建造後120年、沈没後70年を経過した今も、彼女はひっそりと水深27mの水底に眠る。1991年のピナツボ火山の大噴火によって10m以上の厚さに堆積した火山灰の海底に、左舷を下にした横倒しの状態で、艦橋の前後に装備した8インチ2連装回転砲塔の半分まで泥に埋没させてダイバーを迎える。
潜降して水深23m、後部甲板の8インチ砲身のすぐ上で、バディのファーグが先に残圧計を確認した。80cf ツィン・シリンダーの残圧は共に190Barある。前もって打ち合わせたロック・ボトム の40Barを差し引く。ターンプレッシャー の100Barをお互いに手信号で伝え、すぐに予備のライトと2本のナイフ、スプール とノートのある場所、背中の3カ所のシリンダー・バルブが開いていることを確認する。私が「俺たちのSCR ならこのペネトレーションを15分は楽しめる」と計算している間に、ファーグは左腿のポケットからスプールを取り出してジャンプ・ライン の始点を一抱えもある8インチ砲の砲身に巻き付け始めた。
今日のライン・マンは英国人の彼が務める。ファーグは振り返りながらライトで私に合図を送り、ラインを引きながら砲身の下の開口部に侵入した。私は少しだけ距離に余裕を持たせて後に続き、彼がタイ・オフ した箇所を確認しながらさらに進む。少し後ろから間合いをとり、直径5mmほどのクレモナ製のパーマネント・ラインにジャンプ・ラインを連結しているファーグの手許をライトで照らしてサポートした。
内部に入るとすぐに、体をひねって前屈しなければ通過できない、ドアに阻まれた狭い通路に出る。通過した後、いつもの手順通りに左のシリンダー・バルブを触って閉じる方向に動いていないかをチェックする。先頭のファーグは、パーマネント・ライン沿いに、フィンを使わずフィンガー・クロールだけで無音のグライダーのように移動する。私は、“モワッ”としたベージュのインクが漂う視界の中を、先行する彼のライトが放つ滲んだ光の後を追う。目を閉じて「ゆっくりと、落ち着いて呼吸を保て、左手に感じるラインの感触に意識を集めろ」と自分に言い聞かせた。
狭い通路の移動の後、目的のエンジン・ルームに到達する。ファーグは楽しみの内部散策のために、もう一つスプールとアローを取り出してセーフティ・ラインを用意した。「OK、準備は万端だ、行こうぜ相棒」ダイバーがほとんど入ることのないチャコール・ルーム で遊んでいると、突然、自分たちの排気泡で、上から赤錆び混じりの大量のシルトが降り注いで視界ゼロとなる。いつもより1オクターブ高いキィで“ドコッ、ドコッ”と鳴り響く心臓の鼓動を聴きながら、ラインを維持したまま反転して、タッチ・コンタクトとバンプ・アンド・ゴー で出口に向う脱出行が始まる。
テクニカル・レック・トレーニング、すなわち内部侵入と加速減圧を伴う沈船ダイブ・トレーニングは、ダイバーに豊富で様々な経験を積ませ、スキルを研ぎ、チームの統合意識を鍛え、そして洞察力と状況判断力を育てる。とりわけ彼女は戦闘艦であるが故に、肉厚の鉄鋼で鍛えた頑強な構造をもち、通路は狭く複雑に入り組み、内部は錆びた金属の突起物や瓦礫が散乱し、加えて堆積した火山灰に埋れた濁り易い環境なので格別である。
ファーグと私は、USSニューヨークへのペネトレーション・ダイブだけで27回目のバディを組む、気心の知れたチームだ。我々は予備の脱出口に出て、右舷側の深度18mに常設した係留ラインにステージした酸素シリンダーを回収して浮上を始めた。6mで予定通りの加速減圧を終えた頃、過去の熾烈な戦闘で命を落とした先人達に、無言で鎮魂の言葉を贈った。
(※月刊ダイバー2013年2月号「世界レック遺産2」への寄稿記事の原文です)
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by dirtech
| 2013-03-08 10:48
| "快刀乱麻"