DIR-TECH Divers' Institute <akiyoshi.kubo@gmail.com>
2024-03-13T15:38:40+09:00
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-最も安全なダイビングの方法を提案します-
Excite Blog
コース&イベントカレンダー
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2024-02-18T12:45:00+09:00
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2019-02-23T20:52:10+09:00
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コース&ツアーカレンダー
日程:3月17日(日)場所:オンライン
『テクニカルレック海洋ダイブ/前半』
日程:4月6日(土)- 7(日)場所:熱海
『テクニカルレックプログラム』
日程:4月7日(日)- 9(火)場所:熱海
『お台場水中生物観察会』
日程:4月14日(日)場所:お台場海浜公園
『東京大学JAUSプライマリーコース』
日程:5月3日(金/祝)- 6(月/祝)場所:本郷キャンパス※クローズドプログラム
『テクニカルレック海洋ダイブ/後半』
日程:6月27日(木)- 28(金)場所:沖縄(LST447)
『テクニカルレックプログラム』
日程:6月27日(木)- 28(金)場所:沖縄(LST447)
『テクニカルレック海洋ダイブ/前半』
日程:6月29日(土)- 30(日)場所:沖縄
『東京大学JAUSプライマリーコース』
日程:8月9日(金)- 12(月/祝)場所:本郷キャンパス※クローズドプログラム
『テクニカルレック海洋ダイブ/後半』
日程:10月11日(金)- 12(土)場所:沖縄(LST447)
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-Instructor Resume
http://dirtech.exblog.jp/9016123/
2024-02-07T11:54:00+09:00
2024-03-08T16:11:13+09:00
2008-07-10T16:54:24+09:00
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インストラクター紹介
久保 彰良
Akiyoshi Kubo
********************************************************************************************************
1980年にリサーチダイバーとして職業ダイビングの世界に入り、84年にPADIインストラクターとなりました。その後PADIファイブスター・ダイブセンターを運営し、PADIインストラクタートレーナー資格であるコースディレクターとなったのは1990年の秋でした。
1991年から2000年までの10年間はPADIで働く機会があり、IE(インストラクター・エクザミネーション)やメンバーセミナー、CDTC(コースディレクター・トレーニングコース)のお手伝いなどを通じて、世界中のPADIインストラクターや米国本部をはじめ、世界中のPADIオフィスの仲間と仕事をさせていただきました。PADIでの最後の仕事は、1998年から2000年にかけての「PADI/DSATテックレクプログラム」の開発です。
通算しておよそ2年のカリフォルニアでの留学の後、当時アメリカで出会った"DIRダイビング"のコンセプトを、日本のダイビングシーンに普及、啓蒙しようと帰国し、現在に至ります。そのように行動させた理由は、もっと具体的な方法で、判り易く、ダイビングの安全を実現させなければならない、という使命感からです。
ダイビングインストラクションを天職と自負し、現在は、日本国内と1994年以来の友人たちが経営するダビングリゾートとファシリティのあるプエルトガレラ(フィリピン、ミンドロ島)の拠点を往復しながら、PADIダイバー・プログラムをはじめPADIインストラクターコース、さらにテクニカルダイバー、テクニカルインストラクターコースを開催しています。
ダイビング・プロフェッショナルの重要な仕事のひとつは、水中世界の楽しみと感動を伝えることですが、しかし、ダイビングインストラクションは教育活動であり、サービス業ではありません。誤解なく表現すれば、"質の良いダイバートレーニングを、丁寧な接客の心で提供すること"だと確信しています。
ダイビングインストラクションの本質は、ダイビングのリスクと危機回避の大切さをダイバーに伝え、そして正しく行なえば安全であることはもちろん、より余裕を持ってダイビングを楽しめるようスキルと知識を授け、辛抱強く、自立したダイバーを育てる姿勢です。そのためには、インストラクター自身がダイビング経験を重ね、常に最新の理論と知識を求め、向上心をもって最善のインストラクションを提供する努力を続けなければなりません。
趣味としてのダイビング活動は、2004年以来、東南アジアからインド洋にかけての海域で第2次大戦時に沈んだレック・リサーチに関する複数のプロジェクトを、広くアジアにまたがる仲間のインストラクター達と進行させています。そして2011年5月、スリランカ東海岸沖合いに沈む英空母HMSハーミスへのペネトレーションを最初に行った、5人の日本人探査チームダイバーの1人でもあります。
公的な活動では、学術研究機関の依頼で、神秘的な”ドラゴンブルー”と呼ばれる秀逸の透明度を誇り、その奥深く謎の大地底湖があるといわれる岩手県岩泉町に所在する「龍泉洞」の潜水調査を担当しています。2009年末から2010年1月を皮切りに、2010年2月、2010年12月から2011年1月、2011年12月から2012年1月、2013年5月、そして2014年12月から2015年1月、2015年12月から2016年1月、2016年9月、2022年4月の再開予備調査と、通算して9度の潜水調査活動の指揮を担当する機会をいただきました。
「日本洞穴学研究所」
http://www.iwate-ryusendo.jp/douketsugaku/
また2019年から始まった全国生産技術協会が主体の5年間の調査プロジェクトである「石西礁湖でのサウンドスケープ調査」では、主に水中生物の鳴音収音と調査活動中の水中映像撮影を担当し、「やいまの魚(いゆ)めいおん図鑑」の成果に貢献しました。早稲田大学先進理工学部「中尾研究室」の生物採集や調査の支援、EPSON傘下の時計メーカー「オリエントスター」社の製品開発など幅広く活動しています。
「やいまの魚(いゆ)めいおん図鑑」
https://meion-zukan.com/
「オリエントスター Diver 1964 2nd Edition」
https://www.youtube.com/watch?v=1joPBUboy_E&t=24s
https://www.youtube.com/watch?v=5eS7pSHZOzY
このページをご覧いただいたダイバーやインストラクターの皆様と、いつかどこかでお目にかかることを楽しみにしています。旅先や海辺、あるいは水中で(!)見かけたら、ぜひお声掛けください。
そして、私が開催するコースや特別なツアーにご興味があれば、ぜひ一度ご連絡ください。
E-mail: akiyoshi.kubo@gmail.com
Phone: 090 1559 9140
"Always for Happy & Safe Diving!"
********************************************************************************************************
職務経歴-株式会社アムテック取締役社長:2016-現在
-DIR-TECH Divers’ Institute代表:2007-現在-株式会社ハルシオンジャパン取締役テクニカルアドバイザー:2009 -株式会社ハルシオンジャパン代表取締役:2006-2008 -Ex-Scuba/DUIテクニカルディレクター:2004-2007 -株式会社PADIジャパン取締役トレーニング部長:1997-2000 -PADIジャパンカレッジ・トレーニングコーディネーター:1991-1996 -PADIインストラクターエクザミナー:1991-2000 -PADIダイブセンター代表:1986-1990 -調査ダイバー:1980-1985
他の経歴 -全国水産技術協会「サウンドスケーププロジェクト」研究担当者:2020-現在-日本洞穴学研究所 理事:2017-現在 -日本洞窟学会 会員:2015-現在 -ポセイドンMk-6 & Se7enリブリーザー開発アドバイザー:2013-現在 -非営利活動法人 日本水中科学協会 副代表理事:2010-現在 -日本洞穴学研究所 研究員:2010-2016-第30次龍泉洞台風被害調査 第3地底湖奥調査チーム指揮:2016年9月 -第29次龍泉洞再測量調査隊 潜水調査チーム指揮:2015年12月-2016年1月 -第27次龍泉洞再測量調査隊 潜水調査チーム指揮:2014年12月-2015年1月 -第23次龍泉洞再測量調査隊 潜水調査チーム指揮:2013年5月 -第20次龍泉洞再測量調査隊 潜水調査チーム指揮:2011年12月-2012年1月 -第18次龍泉洞再測量調査隊 潜水調査チーム指揮:2010年12月-2011年1月 -第15次龍泉洞再測量調査隊 潜水調査チーム指揮:2009年12月-2010年2月 -英空母「HSMハーミス」プロジェクト 探査チームメンバー:2004年-現在
潜水資格 -PADIコースディレクター(#800460:1984-現在) -PADIテックトライミックス・インストラクター&インストラクタートレーナー -PADIテックディープ・インストラクター&インストラクタートレーナー -PADIテクニカルレック・インストラクター&インストラクタートレーナー -PADI SUEX ADVインストラクター&インストラクタートレーナー -PADIテックサイドマウント・インストラクター&インストラクタートレーナー -PADIトライミックスガスブレンダー・インストラクター&インストラクタートレーナー -SIEL CAIMANO Mk-4 CSC オーソライズドインストラクター-POSEIDON Mk-6/Se7en CCRインストラクター -DRAGER SCRインストラクタートレーナー -GUEテック1&2ダイバー -GUEケイブ1ダイバー -GUE JJ CCR-1ダイバー-GUEドキュメンテーションダイバー -IANTDトライミックス・インストラクター(#4548)※ノンアクティヴ -IANTDテクニカルレック・インストラクター -エマージェンシーファーストレスポンス・インストラクター&インストラクタートレーナー-PADI酸素プロバイダー・インストラクター&インストラクタートレーナー-DAN酸素プロバイダー・インストラクター&インストラクタートレーナー(#101231)※ノンアクティヴ-潜水士(1980-現在)
潜水経験(50年) -10,000+ダイブ
講演 -「JAUSプライマリープログラム」岩手県立種市高等学校 2023-「ダイブコンピューター今昔物語パート2」日本水中科学協会 2019
-「ダイブコンピューター今昔物語」日本水中科学協会 第8回シンポジウム2019 -「タイ国タム・ルアン洞窟救助」横浜あざみロータリークラブ 公開卓話2019 -「タイ国タム・ルアン洞窟救助」ウィザード都政新聞社 朝食の会2018 -「福島第一原発沖の水中線量計測調査」:日本水中科学協会2017 -「ダイブイン・ザ・ファーストレーン」芝浦工大/JCUE/JAUS共同講演会2016 -「龍泉洞地底湖のリサーチ」日本水中科学協会 第2回シンポジウム2012 -「巨大地底湖を目指して」日本洞穴学研究所 岩泉町龍泉洞調査報告会2012 -「オープンサーキットスクーバのガス計画と管理」日本水中科学協会2012 -「ミステリアスマラディvs.減圧ストラテジー」日本水中科学協会2011 -「テクニカルダイビングの減圧ステラテジー」日本高気圧医学会 小田原セミナー2011 -「JAUSプライマリーコース」日本水中科学協会2011 -「指導団体から見たナイトロックスコース」安全潜水を考える会1999
出演/協力 -「市川紗椰のタイムアンドタイド ( 7/16)」J-WAVE 2022-「DIVE INTO TIME - ドラゴンブルーの地底湖へ 前/後編」ディスカバリーチャネル 2022-「Mr.サンデー特別番組-タイ洞窟救助再現ドラマ」フジTV 2018 -「ワイドスクランブル-タイ洞窟救助」TV朝日2018 -「ウィンターワンダーランド・オブ・アイス-北海道」NHKワールド2018 -「福島-7年目の真実」TBS 2017 -「ザ・ノンフィクション:天使の水と悪魔の泥-巨大地底湖を探せ!」フジTV 2012
執筆/寄稿/監修 -「洞窟の疑問30」成山堂書店2018年2月初版 -「龍泉洞再測量調査-第6次潜水調査報告書」日本洞穴学研究所 第33号2015 -「龍泉洞再測量調査-第5次潜水調査報告書」日本洞穴学研究所 第32号2014 -「海中の廃墟-世界レック遺産」月刊ダイバー2013年7月号 -「スンダ海峡のビッグボスブルーズ-世界レック遺産」月刊ダイバー2013年6月号 -「龍泉洞潜水調査報告会」日本洞穴学研究所報告 第31号2013 -「赤道の島、女王の船(後編)-世界レック遺産」月刊ダイバー2013年5月号 -「赤道の島、女王の船(前編)-世界レック遺産」月刊ダイバー2013年4月号 -「天皇からの手紙-世界レック遺産」月刊ダイバー2013年3月号 -「ニューヨーク・スケッチブック-世界レック遺産」月刊ダイバー2013年2月号 -「最新ダイビング用語事典」成山堂書店2012年12月初版 -「楽園のアルマジェーン-世界レック遺産」月刊ダイバー2013年1月号 -「龍泉洞-謎の地底湖を探査せよ」月刊ダイバー2012年3月号 -「龍泉洞再測量調査-第4次潜水調査報告書」日本洞穴学研究所報告 第30号2012 -「パーフェクトフィンテクニック」月刊ダイバー2012年3月号 -「パーフェクトトリム」月刊ダイバー2012年2月号 -「テクニカルダイビングにおける減圧ストラテジー」日本高気圧医学会誌2011 -「龍泉洞再測量調査-第3次潜水調査報告書」日本洞穴学研究所報告 第29号2011 -「龍泉洞再測量調査-第1次2次潜水調査報告書」日本洞穴学研究所報告 第28号2010 -「遊ぶ指差し会話帳-ダイビング英語」情報センター出版局2007年初版 -「PADIテックディープダイバー・マニュアル」PADI/DSAT 2000年英語初版 -「指導団体からみたナイトロックスの利用」安全潜水を考える会研究集会論文集1999 -「オープンウォーターダイバー・マニュアル」PADI 1996年英語初版 -「PADIアイスダイバースペシャルティ・アウトライン」PADI 1994年日本語初版 -「PADIジャパンレポート」1990-2000
共同研究/協力 -全国水産技術協会:2020-現在-共同通信社 ビジュアル報道センター写真部 水中写真班:2016-現在-早稲田大学 先進理工学部 化学・生命化学科:2013-現在
教育-Monterey Institute of International Studies 国際環境政策専攻 -立命館大学法学部 行政学専攻-三重県立伊勢高等学校********************************************************************************************************
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-About Us
http://dirtech.exblog.jp/8952171/
2024-02-07T11:45:00+09:00
2024-02-07T11:45:38+09:00
2008-07-03T17:20:10+09:00
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DIR-TECHについて
DIR-TECH Divers' Institute の使命は、"Doing It Right"- ダイビングを"合理的に正しく行う"- を基本理念とし、リクレーショナルからテクニカルダイビングまで、ダイバーからインストラクター・レベルまで、すべてのダイバーレベルで質の高いトレーニングを提供し、安全にダイビングのできるダイバーと、最も安全にダイビング指導のできるインストラクターを育成し、究極のダイビングの楽しみを追求するダイバーを増やすことです。
主なトレーニングは、PADIのインストラクタートレーナーが提供します。また私はテクニカルダイビングインストラクタートレーナーでもあります。
PADIインストラクタートレーニングは、提携するPADI IDセンターで開催し、リクレーショナルダイビングのトレーニングではPADI、テクニカルダイビングでは、PADIとGUEなどのプログラムで、CPR/ファーストエイドトレーニングにはEFRプログラムを提供しています。
幅広いダイバー教育プログラムを通して、リクレーショナルダイビングから、さらに減圧ダイビングを含むトライミックス・ダイビングまで、奥行きの深いトレーニングを提供します。また、海外の著名なダイビング・インストラクターとのコラボレーションにより、テクニカルレックコースやケイブダイビングコースを開催します。また、GUEプログラムは、契約するGUEインストラクターのもとで、GUEファンダメンタルズコースからテック-2とケイブ-2からさらに上級のテクニカルコースが開催可能です。
活動エリアは、国内においては西伊豆が中心ですが、希望があれば他のエリアでの講習も可能です。たとえばテクニカルレックコースは、沖縄本島、パートナーファシリティであるTech-Asia-プエルトガレラ、フィリピン-、ケイブダイバープログラムは国内とメキシコで開催しています。
最先端のダイビング理論とインストラクション・テクニックを求め、常に前衛の理論と技術を習得するために、世界で著名なダイビングインストラクターやトレーナーとともに定期的にトレーニングを共催し、また自らも新しいプログラムに参加することを義務付け、積極的に世界中のネットワークから最新の情報と手法を取り入れて常にコースを最善のものにする努力を続けています。
したがって DIR-TECH のトレーニングに参加することは、最新の潜水理論と潜水技術を身につけたダイバー、インストラクター、テクニカルダイバー、テクニカルインストラクターになることを意味します。
効果的にダイビングの知識や技術を学んでいただくために、それぞれのダイバーやインストラクター候補生の要望や能力に応じたトレーニングを選択し、全てのトレーニングを通して、ご参加いただく方々が常にチャレンジできるプログラムになるよう注意を払い、安全が脅かされないコースを提供することをお約束します。
DIR-TECH Divers' Institute
Contact:akiyoshi. kubo@gmail.com
Hotline:090-1559-9140
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熊野灘原発誘致顛末記
http://dirtech.exblog.jp/21335506/
2013-10-23T19:43:00+09:00
2013-11-29T12:30:13+09:00
2013-10-23T19:42:47+09:00
dirtech
"快刀乱麻"
私の生まれ故郷は、当時(今もかな)たいへん漁業の盛んな町で、その人口1万人に満たない小さな漁師町の海岸、「城の浜(じょうのはま)」(現在は"孫太郎海岸"と呼ばれています)もその候補予定地と決まり、毎日、海と山でノホホンと遊ぶ事だけに明け暮れる子供の私にも、なんとなく大人達のギクシャクとした空気が伝わります。
町の大半が漁師、しかし私が生まれた家の稼業は商家で、町では漁師は「漁方(りょうかた)」、商家は「売方(ばいかた)」と呼んで、どちらにしても町の小さな経済は、漁業とその漁業の稼ぎを当てにした商売で成り立っていた訳です。
原発誘致には、「漁方」はほぼ反対派で構成されているとは言え、反対派の「漁方」にも、原理的で純粋、そして強硬な反対派、漁業補償交渉を有利に進めるための条件闘争型の反対派、反対を表明しつつ実は勝ち馬に乗ろうと旗色を観る日和見派であったと思います。
いっぽう「売方」の多くは、商売への影響を恐れ、表向きは明確な態度表明はせず、しかし本音は、誘致が決まれば、長い年月にわたる建設事業、高速道路事業、"日本のチベット"と揶揄されるほど辺鄙な紀伊半島南部地域の人口増と経済発展を期待して「誘致賛成」であったはずです。
その頃、私の父は、私が生まれたその年に、銀行員から脱サラし、借家の軒先から始めた豆粒のような3つの田舎事業を、小さいながらもそれなりに成功させた時代でした。それは日本の高度経済成長期と彼の人生の絶頂期に昇る時期とも重なる時代で、商工会のような役員を幾つも引き受けて、毎晩なにかの寄り合いやら会合やら、時には応援する地域出身の代議士への陳情のために夜行列車で東京へと忙しく、たまに住み込みの従業員の若い衆と囲む夕餉の食卓では「原発が来れば...」と、事業拡大の夢を熱く語っていたのを、食卓の傍らで聞きかじったことを覚えています。
しかし結果は、漁方の反対活動は凄まじく、当時の通産大臣であった中曽根氏が現地視察する朝、大漁旗を掲げた大量の漁船を集結させて「海上デモ」を行ない、大臣の「城の浜」への視察上陸を実力行使で阻止。その後の紆余曲折はありましたが、電力会社はついに紀伊半島の原発建設を断念し、現在の静岡県「浜岡原発」の建設を決めたのでした。
あの地震の後、「福一」の事故の直後、私たちにはまだ深刻な状況が見えない最初の週末、国内外の、日本人以外の友人知人からメールが入り始めます。
大使館勤務の奥さんをもつ、在日時にIDCを担当したカンボジア在住のフランス人格闘技家から「家族は大丈夫か?フランスは、在日する同国人に、福島から60km以上の退避勧告を出した。そして明日、出国希望者に対し2機の旅客機を緊急に用意する...」、また在東京の外国人を主な顧客とする顧問投資会社の英国人経営者からは「しばらくの間、東京オフィスを閉鎖する。社員は香港とシンガポール事務所に分かれて移動する。Yoshiと家族はどうする?」など、ほぼ隔離された"島"で生涯の大半を過ごし、漠然と、このまま未来永劫に天変地変や戦争なんて悲惨な事象に遭遇する事なんては無いだろう、とタカをくくっていた能天気な日本人には、「いったいどうなってる...」というほど、彼らの危機回避行動の早さでした。
あらためて、少しの間ですがカリフォルニアに住んでいた時の感覚で考えてみれば、私たちにとっては「福一は東京から180kmも」離れていると言う感覚ですが、これは箱庭のようなこの国に住む人間の距離感覚であって、長い歴史を大陸や大洋を行きして為してきた彼らの世界観では、ほとんど隣家の距離であろうということです。
その週明けの朝でした。私の携帯電話に、故郷の幼なじみから、数年振りの着信がありました。「元気かい?どうだい、福島の原発は?大丈夫か?オレ達のオヤジ達は偉かったな!あんものを造らせなかったのだから。危険だと感じたら、いつでもこちらへ避難しておいで。」
私は、ちょっと複雑な気持ちで「ありがとう。おまえも元気で。」と返事をしながら、"これ以上のことが起きれば、この小さな国の何処にいようと、もう誰も人ごとではないのだよ"と心のなかで呟いていたのを思い出します。
「誰もが過剰なる文明と欲望の共犯者に成り得ることを、たくさん、そして充分に学びました。」
ところで、そんな私の小学6年生の夏休みの自由研究は「軽水炉型原子力発電所について」で、これは当時の担任の先生と4年前に他界した母親くらいしか知らないでしょう。
くわえて大学の専攻は行政学で、卒論は「住民意思決定の形成過程」。それは福島原発誘致の議会決定過程に、どのような階層が誘致への意思形成に影響を与えたか、というテーマでした。4回生の夏休みに、福島の双葉町に2週間泊まり込みで聞き採り調査したのが懐かしい、というのは当時の担当教授とゼミの仲間くらいしか知りません。
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海中の廃墟
http://dirtech.exblog.jp/21225788/
2013-10-06T14:23:00+09:00
2013-10-06T14:25:20+09:00
2013-10-06T14:23:21+09:00
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"快刀乱麻"
当時、まだ日本のPADIは、現在のように各地に独立した「インストラクター開発センター」制度を導入していなくて、したがって日本国内でのインストラクター・トレーニングを、PADIが直接運営する「PADIカレッジ」が独占的に行っていた時代だった。
その「PADIカレッジ」がインストラクター向けスペシャルティ・コースを小笠原で開催するという案内を受けて、その時「レック・ダイバー・インストラクター」資格がなかった私は、前々から行ってみたいと願っていた小笠原へ、個人的なダイビング旅行に近い気分で参加した。
その年の春から遅い秋にかけては、様々なレベルのダイビング講習で忙殺され、よく働いた自分への褒美として、芝浦の日の出桟橋 から小笠原丸に乗った。まさに”渡りに船”とはこのことだ。世間は師走で、たとえ嘘でも忙しく、あるいは忙しそうに見せているというのに。
自分が受けるべきコースが終わり、残りのスケジュールを、父島の海で潜る経験で埋められれば良いと考えていた。平日の良く晴れた日、今回のインストラクター・コースで利用するダイビング・サービスのスタッフであり、番頭格でもあるスギウラさんが、私だけを誘って「滝之浦に行きましょう。」と言う。
その時なぜか、きっと特別な出会いがあるだろうと言う予感がした。デジャヴ 、前にもこのようなやり取りをどこかでした、と言う確信に近いものだったと言ってもよい。
二人で二見港に係留したサービスの船の舫をといて兄島に向けて出港する。ほどなく、紺碧の、そして透明感のある12月の海上を吹き渡る北西風の陰に入る滝之浦に到着する。スギウラさんは、山だてをしながら細かく、そして慣れた手つきで舵を操り、何度か小刻みに前後進を繰り返した後、「よし、ここだ!」という納得のいった表情で私に合図を送った。間髪を入れず、私は手に持ってスタンバイしていた錨を蒼い鏡の海に落した。割れた鏡の向こう側に吸い込まれてゆく錨がくっきりと見える。足下のアンカー・ラインがまっすぐに海中に繰り出されて行く。
すぐにウエイトをつけ、シングル・シリンダーの通常のスクーバ装備を背負い、数秒でバディ・チェックを完了し、われわれは同時にジャイアント・ストライドで小笠原の海にエントリーした。眼下には、延々と砂紋が広がる白い砂漠に、美しい船が、かつて輸送船として活躍した姿をほぼ留めた状態で、行儀良く”正座”して沈んでいる。さらに潜降を続け、そのレックに接近するにつれて、彼女の最後の様子がどのようなものであったか、具体的な状況が視界に飛び込む。太平洋戦争末期の民間から徴用されたと思われる輸送船の主な積荷は軍装品だったようだ。中央甲板付近には、散乱する20mm機関砲弾、鉄鋼弾の弾倉の束、むき出しの500kg爆弾、軍用ジープなどが生々しく原形を留めたままだ。
海中の砂漠に鎮座する彼女の名は『延寿丸』といわれている。思わずスギウラさんと眼を合わせ、胃袋が裏返り、心臓を握り潰されるような、何とも説明の出来ない感動で視線だけの会話を交す。私が沈船を見て、激しく心を揺さぶられた、刺激的な最初の経験であった。
着底して水深計を確認すると43mだ。すぐに浮いて船尾に移動する。水面に向かって直立するアンカー・ラインを見上げると、無人の白い船底が、正中する太陽の逆光に映えていた。
滝之浦湾には「フカチン」と呼ばれる沈船がある。呼称の由来は単純明快で、そのレックは40mを超える深場に存在するからである。『延寿丸』とも呼ばれているが、実際のところ彼女の正確な船名は不明だ。
滝之浦には、この「フカチン」以外にも「バラチン」 や「ヨコチン」 など、存在する形態にあわせた呼称の沈船ポイントが複数あり、小笠原を訪れたことのあるダイバーなら、一度は経験する代表的なダイビング・サイトでもある。だが通称「フカチン」、『延寿丸』は、レクリェーショナル・ダイバーの最大限界深度である40mを超える海底に沈んでいることから、今では通常のダイバーが訪れることは多くはないらしい。
小笠原兄島の沈船群は、太平洋戦争の末期、1944年7月の父島空襲に際し、滝之浦湾に退避した6隻の輸送船団であろうと推測できる。国立国会図書館の資料 によれば7月4日に、昭瑞丸(東和汽船 2,720t)、志摩丸(大阪商船 1,987t)、辰栄丸(辰馬汽船 1,942t)、第八運洋丸(中村汽船 1941t)、大功丸(大洋海運 897t)そして第五利丸(西大洋漁業 298t)の6隻が米空軍の空襲によって滝之浦に沈んだ。そしてこのなかには『延寿丸』の船名はない。
さらに資料を探ると、同年8月4日の記録に、父島から横須賀に向かって出港した5隻の輸送船団の中に『延寿丸』(岡田商船 5,374t)の名前が存在する。この5隻の船団は、二見港を出た直後の午前10時過ぎに、アメリカ機動部隊の空襲で沈められた。
滝之浦の「フカチン」が『延寿丸』でないと仮説を立てて立証するには、「フカチン」と『延寿丸』の船体構造、大きさ、積荷などから探るしかない。
そこで私は、この目で確認した『延寿丸』すなわち「フカチン」の積荷が、当時の積荷目録が存在して、その記録と合致すれば、彼女が『延寿丸』であるのか、あるいは私が見た沈船が、少なくとも滝之浦に退避して沈んだという記録に残る6隻の船のどれかだと確定できると推論し、「昭瑞丸」、「志摩丸」、「辰栄丸」、「第八運洋丸」、「大功丸」そして「第五利丸」の6隻と『延寿丸』の積荷目録を辛抱強く探してみた。しかし現在のところそれも叶わず、今となっては「フカチン」の船名が『延寿丸』なのかどうかは、「フカチン」を実測し、その大きさから排水量(トン数)を推測し、滝之浦の6隻のなかのそのトン数に近い船が「フカチン」の“本名”ではないかと類推するしかない。
2012年10月、私は16年振りに3度目の父島を訪問した。あの滝之浦の『延寿丸』がどうなっているのかを知りたいと思ったのだ。カサイさんの操船で、シゲさんに「フカチン」に案内されて、私は彼女に再会した。長い年月のあいだに、文字通り外洋の荒波に耐えて、それでも彼女は健在だ。「フカチン」の船体中央は左右に開き、船首は左舷側に傾いてしまっている。彼女はけなげに年老いた船尾をスッキリと立ち上げ、相変わらず見応えのある積荷の爆弾や砲弾と銃弾はそのまま で、「私はこの滝之浦では特別な存在なのよ」とダイバーを挑発する。
予定の潜水時間が迫り、私たちは群青の空間を水面に向かって上昇した。彼女が若かった頃に運んだ物資と乗客、1,000km隔てた本土と島を往来し、乗船した兵士と乗組員の生活、そしてかれらの家族、それぞれの人生の物語を乗せた「海中の廃墟」の来歴に思いをめぐらせた。
(※月刊ダイバー2013年7月号「世界レック遺産7」の寄稿原稿の原文です)]]>
リーシュ-Leash
http://dirtech.exblog.jp/20897279/
2013-08-25T20:16:00+09:00
2013-08-27T08:19:42+09:00
2013-08-25T20:16:19+09:00
dirtech
"快刀乱麻"
その前に簡単に説明すると、リーシュは、バックマウント、サイドマウントを問わず、テクニカルダイビングで複数本のマルチステージやデコシリンダーを携行する場合の、その言葉通りの"曵き綱"です。犬の散歩に使う「ドッグリーシュ」のリーシュですね。
ループクリップ-Loop Clip-と呼ぶ人もいるようですが、同じものです。ただこれまでのところ、私の周りでそう呼ぶダイバーはおりません。.
<用意する材料>
ボルトスナップ、直径4mm-5mmのナイロンライン、古い中圧ホース
<道具>
ハサミ、バーナー型のライター、瞬間接着剤
<作り方>
1. 中圧ホースを4-5cmの長さにカットする。(自分の手掌の幅の長さにカットするダイバーもいます)
2. ラインを30-40cmくらいの長さにする。
3. ラインを中圧ホースに通す。
4. ボルトスナップもラインを通す。(ボルトスナップを通さずにダブルエンダーで使う方法もある)
5. ラインの両端を平行にし、相手側にループして結ぶ。(2度廻して通して結んでも良い)
6. 両端をしっかり引いて結び、余りをカットする。
7. 両端をライターで焼いて溶かし、結び目側に押し付けて留める。
8. 結び目に瞬間接着剤を適量流して確実に解けないようにする。
<使い方とリーシュテクニック>
機会があればまた今度。ちなみに、40cfのアルミシリンダーなら7本、80cfなら4本まとめて曵いたことがあります。DPVを使ってですが。
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赤道の島、女王の船(後編)
http://dirtech.exblog.jp/20834289/
2013-08-09T19:37:00+09:00
2013-08-09T19:39:00+09:00
2013-08-09T19:37:11+09:00
dirtech
"快刀乱麻"
深夜にもかかわらず5月のバンダラナイケ国際空港 は熱い。成田から飛んだキヨ、ヤス、マサと私、シンガポールの乗り継ぎで合流したグレンの5人に、ほどなく名古屋セントレア空港から別ルートで出たダイサクが揃って、大量の荷物とともに入国審査を受ける。空港に近いネゴンボのホテルにはファーグとマイクが到着している筈だ。日付を超えた時間にホテルのチエックインを済ませ、すぐに冷たいシャワーを浴びた後、私は翌日の移動に備え、長旅で疲れた身体をシーツに滑り込ませた。ゆっくりと回転する天井のファンを見上げると、辛抱強く待ち続けた『ハーミス』探査プロジェクト再開までの時間を巻き戻すようかのように、彼女の沈んだ場所を特定した少し昔を思い出す。目の前に、ターコイズブルーの、柔らかく手触りの良いベルベットの海が広がる。熱帯特有の甘い香りの空気と、漆黒の闇から網戸を通して送られる優しい風であやされる赤ん坊のように、深い眠りに落ちた。
5月28日の朝、われわれ8人は2台のトヨタに分乗した。道路は未舗装で、ところどころ陥没した場所を避けながら、山岳道路のB9でビンナワラからダンブッラを越えてシギリヤを経由し、道端で売られる茹でたトウモロコシで空腹を満たし、グリーン・ココナッツのジュースで乾いた喉を潤し、石窟のある仏教徒の、極彩色の寺院で賑わうヒンドゥの、丸屋根の教会とコーランが響くモスレムの街々を抜け、草原が続くルートA11沿いを移動する野生の象、子連れのヒヒ、そして艶やかな孔雀の群れを眺める旅に出た。
スリランカでも辺境と言われるポロンナルワ以東の、内戦時に軍事輸送のために舗装され、良く整備された道路は、日本のODA の賜物だとドライバーに感謝される私を驚かせ、最近まで激しい戦闘が続いたことなど想像させない。西端から東海岸まで300km余りだが、2回の休憩と7時間以上をかけてスリランカを横断する、旺盛な好奇心を刺激する、しかし少しセンチメンタルな旅だ。
その日の夕刻、夕食にまだ十分に間に合う時間に、われわれは先発したサムとジュンが待つ、目的地のバッティカロアに到着した。バッティは、冴え冴えとした満月の夜に「唄う魚」が集まるという伝説が伝わるラグーンに囲まれた街である。ラグーンの外側には海に面した真っ白な砂浜が南北に延々と続く。痩せた長身の老齢の漁師が二人、まとめた投網を裸の肩にかけ、無表情に、ただ砕ける波を凝視して浜に立つ。夕暮れの打ち寄せる波に崩れる二人の細長いシルエットが、飽食の異国からやって来た私に、この最果ての地で生きる過酷さを理解するのに説明は必要ないだろうと語る。
早朝の倉庫兼作業場は賑やかで忙しい。プエルトガレラからガスミックスのためだけにやって来たジュンがコンプレッサーをバリバリ廻してカスケード・バンク に空気を貯め、ダイバーとボートマンを兼ねたスタッフがひっきりなしに出入する。床に落としたガス分析結果を記入してシリンダーに貼付けるためのダクトテープを、自分のデコ・シリンダーのリグ・キットを調整するドライバーを取りに歩き回るグレンが踏んづけ、マイクが俺のウィングのダンプ・バルヴのコードが切れたと騒ぎ、一つしかないヘリウム・アナライザーに順番待ちのダイバーが行列をつくる。そんな騒々しい場所を、装備を調整し終えた私は早々に抜け出し、別棟の簡素な食堂に向かった。時間を惜しんでパンケーキとセイロン茶、蜜 をかけた「ミーキリ」 だけの朝食を済ませる。サムのブリーフィングが始まる前に、食堂に持ち込んだ『HMSハーミスⅠ』の1/100縮尺の設計図を日本人ダイバーたちとともに確認しておきたかったのだ。今日から4日間でどのように「女王陛下の船」を攻略するか、大まかな構想を練った。皆に悟られないように、私は武者震いを隠し、はやる気持ちを抑えて静かに息を吐いた。
ブリーフィングを済ませた我々は、3隻の船外機付きヤマハ製グラスファイバー・ボートに分かれる。最初のボートはGPSを持ったコーディネーターのフェリとその兄が担当し、サム、マサ、ダイサクのチームが乗る。2号艇にはキヨ、ヤス、私の日本人、つまり“帝国海軍機動部隊。”そのボートマンは、ネゴンボからフェリとともに来た、“誠実”が舵を握っているような職人、漁師のラジだ。最後のボートには、ファーグ、グレンにマイクの“東洋艦隊”組だ。3艘のボートが競い合って快晴の海原を疾走する。船底が滑って時々船が跳ねる。船外機が空転する。膝を上手に使って着水のショックを逃がさねばならない。体中にワグナーの「ワルキューレの騎行」 が鳴り響く。30分ほどで前方に鳥山が見えた。1隻の同型の漁船がGTを釣り上げて取込んでいる。まだ距離があるが、それほど大型の獲物だ。減速したフェリのボートが、アンカーを投げ込んで潜降ラインを設置しようと試みる。
ラジが大きく面舵を切って船を遠い潮上に移動させ、私たちに準備をするように目で合図を送った。呼吸ガスにトライミックス21/35を詰めた80cfのアルミ製ダブル・シリンダーと、同サイズのシリンダーに、それぞれナイトロックス50と酸素を充填した2種類のデコ・シリンダーを装備し、ボート上でいつものように、ガスのフロー・チェックと一連のセーフティ・ドリルを行なう。予備のスプール、SMB、マスクとサブライト、2本のナイフ、プライマリーのキャニスター・ライト、減圧プランと各自の役割を再度確認する。40度を超える炎天下で、吹き出す汗が頂点に達した時、ラジの2度目の合図が出た。われわれは4本のシリンダーの重さに身を任せて群青のインド洋に落下した。
ヘッド・ファーストで潜降を続け、互いにバブル・チェックし、プライマリー・ライトをオンにする。“限りなく透明に近いブルー” のすぐ眼下には、船底と左舷を白いソフトコーラルで覆われた『女王陛下のハーミス』が見える。デカイ!特長のあるアイランド・ブリッジが左舷の水底に伸びる。GTの大群が湧き上がり、すぐに取り巻かれて歓迎を受けた。表現不能の感慨で胸が震える。2004年にプロジェクトを計画して以来、この瞬間を6年も待ったのだ。『ハーミスⅠ』の右舷側後部に降りたわれわれ3人は、躊躇なく横倒しになったブリッジ後方の、水面に向かって直立する14センチ速射砲を目指した。
5月29日の朝食後、いよいよペネトレーションのための入念な打ち合わせを9人のダイバー全員で行なった。ひと世代前とは言え、敵と味方に分かれ、『HMSハーミスⅠ』を生んだ英国人と、その女王の船を一瞬のうちに沈めた艦上爆撃機を送り出した空母「赤城」と「飛龍」の国の人間が、ひとつのテーブルを囲み、同じ目標を持つチームとして集束してゆく。彼女の設計図を挟んで、不思議な時間と空間があった。そこには、敵でも味方でもない、勝った国も負けた国もない、そんな矮小さなどを超越した、ただ純粋に、インド洋の水深53mに70年間眠り続ける『ハーミス』という世界初の空母に潜入するという、リスクの高いダイビングを成功させるために統合された“ザ・チーム”がいた。
3回目の潜降の途中、先にラインを張り終えたサムのチームが、浮上を始めるのが見える。すれ違いながらOKサインを交わし、予定通りに作業が進んだことを確認する。入口にしたアイランド・ブリッジの下に2本のデコ・シリンダーをステージ する。バッティカロア周辺にいるダイバーは、われわれしかいない。したがって手間を省いたのだろう、サムが張ったプライマリー・ラインは船外から直接、第2甲板の中に消えているのが見える。残圧を確認し、ターン・プレッシャーを暗算して互いにサインを送る。私は入口で一瞬止まり、目を閉じて頭を垂れた。ひと呼吸し、先行して中に入る。キヨを挟んだ縦列フォーメーションでヤスが最後に潜入する。第2甲板の通路の天井を下に見てラインは右に折れ、奥に続く。シルト・アウトしないように慎重に進むと、ライトに照らさた左手に2個の白いボウルが見えた、いや、ボウルではない。「女王の船」と最後をともにした乗員の頭骨だ。“ギョッ”とはしたが息は弾んでいない。条件反射するように、改めて黙祷する。ティー・スプーンと大きな靴底を越えてラインは奥に消える。しばらくフィンガー・クロールだけで移動すると、仮止めした400フィートのリールがぶら下がっている。後ろの2人にライト・シグナルを送り、リールを左手で取り、さらに前進した。20mほど先のバスタブまで来て、そこでタイムアウトする。この一つ下の階層に、当面の目標とした「楽器庫」がある筈だ。リールを留めて反転し、ヤスを先頭に出口 に戻る。こうしてわれわれは4日間で延べ18回のペネトレーションを試みた。残念ながら、この探査ダイブで楽器を見たものはいなかったが、しかし誰も本気で残念だとは思っていない。なぜなら、それが再び『女王陛下のハーミス』に戻る立派な理由になるからだ。
予定のダイビングを全て終え、全員で記念写真を撮った後、ラジに「唄う魚」のことを訊ねてみた。「唄う魚」たちは、26年続いた内戦の激化と家族を失い離散する人々の増加とともに、今ではどんなに美しく澄んだ満月の夜になっても、もう唄うことはないと言う。
私たちは、この文明の過剰の時代に生きて、本当に幸せになったのだろうか。人間の欲望の再生産が進歩と文明を生んだという説に異議を唱えるつもりはないが、それから得たものと引き換えに、失ったものも多い。大深度のレック・ペネトレーション・ダイブのために、東京、マニラ、香港、ロンドンから、この最果ての地までやってくるわれわれもまた、文明の過剰な時代の共犯者だ。
スリランカの平和な時代が長く続き、冴え渡る満月の夜には、「唄う魚」たちがまたバッティカロアのラグーンに戻ることを願い、私は平穏な日常に戻る旅仕度を整えた。
(※月刊ダイバー2013年5月号「世界レック遺産5」の寄稿原稿の原文です)]]>
スンダ海峡のビッグ・ボス・ブルーズ
http://dirtech.exblog.jp/20695853/
2013-07-07T17:36:00+09:00
2013-08-09T19:40:46+09:00
2013-07-07T17:37:21+09:00
dirtech
"快刀乱麻"
蛇足だが「ハーミス探査プロジェクト」のメンバーとその周囲の友人知人は、多国籍、多士済々、曲者揃いで、なかでも英国人には「公爵-Duke」 や「王様=King」 、「法王-Pope」 までもいる。いや、彼らの地位や職責ではなく、苗字なのだが。しかし実のところ、彼らの幾代か前の先祖や、あるいは今の家族も、本国に領地や城を実際に所有したり、辿れば法王を生んだ家系をもつのかもしれない。
そんなプロジェクトの先が見えないなかで、「王様」のブライアンから、しばらく「ハーミス」がだめなら、インドネシアのジャワ島で沈んだ、同じ「ABDA」 の、つまり「東洋艦隊」の『HMASパース』 が沈んだ確実な位置情報があるので行ってみないかという提案が届く。すぐにデイブが詳細な情報を、母国イギリスとオーストラリア、そしてジャカルタの知人から手に入れ、機材とガスの調達、現地でチャーターできる船の手配に動いた。
『HMASパース』の建造は、まだ肌寒い英国の初夏、イングランド本島南岸、当時軍港として栄えたハンプシャー州ポーツマスで1933年6月に始まった。当初は英国海軍艦船「HMSアンフィオン」 と命名されて、1936年に正式就航したD29型軽巡洋艦である。全長169m、総排水量6,830t、最大速力32ノット、Mk-XXI型口径15cm連装速射砲とMk-XVI型口径10cm連装高角砲をそれぞれ4基、両舷に4連装魚雷発射管を装備して、通常は士官35名と乗員611名を乗せる。そして就航3年後の1939年、イギリス連邦国のオーストラリアに引き渡されて『HMASパース』と改名された。
1942年2月28日から3月1日未明にかけて、当時オランダ領であったインドネシアのジャワ島とスマトラ島を挟んだ海域、「スンダ海峡」で起きた帝国日本海軍と「東洋艦隊」との激烈な闘いは「バタビア沖海戦」 と呼ばれる。前日のスラバヤ沖の交戦で、オランダ艦船「デ・ロイテル」と「ジャワ」、英海軍戦艦「エクセター」や「エンカウンター」などを失い、ほぼ壊滅的な打撃を受けた「東洋艦隊」は、米海軍重巡洋艦「ヒューストン」とウオーラー艦長を筆頭に682名が乗り組む『HMASパース』に、スンダ海峡を抜けてジャワ島南のチラチャップへの脱出命令を下した。しかし28日深夜から翌日未明にかけて、海峡手前のバンテン湾バビ島近くで彼女と僚艦「ヒューストン」は沈む。
彼女は、栗田少将が率いる「西方支援隊」の重巡「最上」と「三隈」からの激しい砲撃、「第5および12駆逐隊」の「巌雲」、「白雲」、「春風」、「旗風」から次々と放たれた21本の魚雷攻撃をジグザグに回避し、かつ反撃するために死力を尽くしたが、ついに3月1日午前1時24分にバンテン湾の底、水深40mに姿を消した。生き残った乗員353名が漂流するその日のスンダ海は、月齢13日目の、よく晴れた明るい夜であったという。
暗い闇の底に沈んでいるような、ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港に降り立ったのは、予定の時間より2時間以上遅れた午後7時を過ぎた頃だ。2009年6月の空港建物の空気は、南国特有の、湿気を含んで重く、粘り気がある。先に到着して私を待っていたデイブとサム、ブライアン、ファーグ達と合流し、車でさらに西のアンヤルに向かう。アンヤルは、チャーターした「MBセシリア・アン」 が拠点とする街だ。
減圧のための酸素と呼吸ガスのトライミックスを作るためのヘリウムは、比較的苦労せずに現地で調達できたが、減圧用シリンダーと呼吸ガス用のダブル・シリンダーが無いらしい。したがって、各自がシリンダー用のバルブとダブル・シリンダー用バンドを持参しなければならなかった。明日は「セシリア・アン」のシリンダーをホテルのバスルームまで運び出し、内部の酸素洗浄 とダブル・シリンダーの組立から始めなければならない。だが、それはそれで楽しい。男の子という生き物は、生涯”男”を維持し続けるために、いつも「玩具」が必要な種族なのだ。
「MBセシリア・アン」は、2002年にこの国で建造された、長さ18m、木造の(!)、しかも2本マストの美しいケッチ だ。白い船体と真新しい純白のセイルは、船好きにはたまらなく美人に見えるに違いない。前日に全て作業を完了し、大量のガスの親瓶と器材の積み込みを終えた私たちは、到着3日目の朝、まだ日が昇り切らないうちに、はやる気持ちを押さえてバンテン湾に向けて東に舵を切った。
1967年に発見された『HMASパース』は、バビ島の西、少し湾内寄りの最大水深40m付近に沈む。右舷を下にして、中心線のおよそ半分までが火山灰の水底に埋没し、あれだけの猛攻撃を受けたにもかかわらず、ほぼ全形を留める。前部甲板の口径15cm連装速射回転砲塔の砲身4門が、いつでも即戦可能だぞと水面の敵を威嚇する。
魚雷の直撃を受けて大きく開いた、左舷中央部から船体内部に入ることを決めた。最も経験のあるサムが先行してガイドラインを引き、私が続き、ファーグが最後を務める。ゆっくりとラインをタイオフする最善の位置を探し、ラインが留っているか確認し、必要に応じて修正し、マーキング して、静かに慎重に、恐れ敬いながら進む。彼女は、キッパリと外界を拒絶する薄い膜がかかったような雰囲気で、私たち3人を圧倒するだけだ。
瓦礫やネジ曲がった鋼鉄の構造物が散乱する『パース』の内部の情報を、それぞれが出来るだけ記憶する。当時お互いに敵として戦った歴史をもつ国籍の私たちは、そんなことはもうどうでも良く、そして不可思議なことに、気心の知れた、何度もレック・ペネトレーション・ダイブを共にした経験が、英語でも日本語でもない、ライトの光とラインの振動から伝わる感触、鋼鉄の戦闘艦内部で微かに反響する呼吸音を通じて、つまり「幻の共通語」を水中で交わしながら探査しているのだ。
メイン・セイルを揚げてアンヤルの港に帆走する、夕焼けに染まる「MBセシリア・アン」の甲板には、心地の良い柔らかい風が吹く。北西の彼方にはカラカトワ火山とスマトラが霞む、ここは海峡だ。甲板のラップトップからブルーズ・ハープ の嗄れた音が軋む。誰かが、たぶん「ローリング・ストーンズ」好きのファーグだろうが、「ビッグ・ボス・マン」 を流している。英国人の彼にシカゴ・ブルーズが似合うとは思えない。当然、日本人の私にも似つかわしくはない。われわれには「海峡」といえば演歌だが、そんな気持ちにもなれない私は、持参したiPodにアン・サリーの「蘇州夜曲」 があったことを思い出した。
さて、バンテン湾の彼女はどんな”ブルーズ”を好むのだろうか。
(※月刊ダイバー2013年6月号「世界レック遺産6」の寄稿原稿の原文です)
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赤道の島、女王陛下の船(前編)
http://dirtech.exblog.jp/20550704/
2013-06-05T08:54:00+09:00
2013-06-05T10:01:02+09:00
2013-06-05T08:54:46+09:00
dirtech
"快刀乱麻"
英国人のデイブとサムが『ハーミスⅠ』を探索しようと思い立ったのは2004年だった。この探査プロジェクトには、その後、同じ英国出身のファーグ、ブライアン、マイクが合流し、さらにアメリカ人のスティーブとジェイク、そして日本人の私が加わることになる。チームメンバーに共通することは、生まれは英国やアメリカ、香港などの違いはあるが、アジアで暮らす優れたテクニカルダイバーであり、何よりも好奇心に溢れるダイバーであることだ。日本人の私が選ばれた理由は、おそらく、かつて敵と味方に分かれて戦った相手の国籍を持つからだったのだろうと思う。
彼女が沈んだ場所を探す手がかりとなる情報は、1980年代にイギリス海軍が『ハーミスⅠ』を調査した記録だけだ。プロジェクト開始の翌年、2005年からチーム内でボランティアを募ってスリランカに遠征するが、最も苦労をしたのは現地でのシリンダーと減圧ガスの調達であった。またスリランカ東海岸でのダイビング可能な時期は、強い東の風が止まる、ほぼ4月から6月の間に限定される。それでもチームメンバーの様々なネットワークを駆使してガスと機材を調達し、サムとスティーブが2006年の6月、空母『HMSハーミスⅠ』が眠る具体的な位置を特定した。
6月のインド洋は、滑らかなシルクのような水面の、無風の海は、コバルト・ブルーに磨き上げられた硝子のように輝き、そして広い。『HMSハーミスⅠ』が沈んだ座標情報を得ているとは言え、そして全長が180mの空母という特長のある船とは言え、広大な海を魚群探知機さえ無い小さな漁船で、ピンポイントにその場所を特定するには手間暇がかかることに変わりはない。大まかに推定した海域で、いつも魚影が濃く、根掛りする場所を漁師たちから聞き出し、ダイビングしながらひとつひとつ潰してゆくという原始的な方法を朴訥に重ねるしかなかった。そして始末の悪いことに、使える時間も呼吸ガスも限られている。そんな身勝手で矮小なプレッシャーを抱える我々を、「何をそんなにあくせくするの?」と笑うように、青いベルベットの6月のインド洋は優しい。
「3日目の朝一番のダイビング。オレとスティーブがバディで、その日も潮が速いからさっさと飛び込んですぐに潜降したさ。明るくて抜群の透明度。かるく30m以上はあったね。下に10mも降りないうちにでっかい船が見えた。もうコレに間違いないって思ったね。左舷を下にして真ん中あたりに独特のアイランド・ブリッジ 、その前後にゃキャノン が上を向いてブッ立ってる!ブリッジ前方の砂地にゃ、こーんな魚雷だって見えてるんだぜ。眼の前の右舷側の上には大きなGT の群れがグルングルン回ってる。もう頭ん中は、来年どうやってチーム全員のシリンダーとヘリウム、酸素を調達するかって考えてたさ。ワクワクしたね。初めてプリンス・オブ・ウェールズ を見たときよりエキサイトしたよ。」53mの白砂の海底に沈む『ハーミス』を最初に見た時のことを、サムは身振りを交えながらこのように述懐する。
『HMSハーミスⅠ』は、英国海軍の航空母艦であり、当初から空母として設計され建造した最初の艦船である。全長183m、全幅21m、排水量10,850トン、40,000馬力で最速25ノット、MkⅫ14センチ口径速射砲6基、10センチ高角砲4基を装備し、ソードフィッシュ型複葉雷撃機20機を搭載した歴史的な戦闘艦である。1923年の就航以来、地中海から中東、さらにはモルディヴからセイロン(当時)、シンガポール、香港まで広範な海域で、第1次世界大戦から第2次大戦初期まで活躍した。
1941年12月、帝国日本海軍によるハワイの真珠湾奇襲で第2時世界大戦が始まる。翌42年3月には南雲中将率いる帝国海軍機動部隊が勢いに乗って南に転進し、英国、オランダ、オーストラリアからなる連合国軍の「東洋艦隊」と対峙することになる。
4月9日のセイロン島東北の都市であり、英国海軍の拠点でもあるトリンコマリーへの日本軍の空襲を避け、南に移動する『ハーミス』は、バッティカロア沖で帝国海軍の空母「赤城」の索敵機に発見される。「赤城」と「飛龍」から飛び立った80機以上の零式戦闘機と九九式艦上爆撃機の攻撃により、1時間と経たないうちに、世界最初の航空母艦『HMSハーミスⅠ』 は、艦長オンスロウと19名の士官、288名の乗員、そして彼女の僚艦であった駆逐艦「HMASヴァンパイア」、「HMSホリーホック」とともに沈んだ。
女王陛下の『ハーミス』が沈んだ場所を探り当てた我々は、翌年の本格的な探査ダイブの実現に向かって、高揚した気分でバッティカロアを後にした。バッティカロアからポロンナルワを経由してネゴンボ近郊まで、スリランカを東西に横断する7時間余りの鉄道の旅だ。赤道に近いこの島を横断する列車の旅は、むせ返るように熱い。冷房の無い客室のシートは固く、これまで経験したことのない南国の匂いで溢れる。子供の頃、唯一の移動手段だった、紀伊半島太平洋沿岸を走るディーゼル列車の夏休みの旅行を懐かしく思い出させた。
駅に停車する度に売りにくる「チャイ」 の買い方が分からない異邦人の私に、無言でチャイを買ってくれた、時の彼方を見通すかのような澄んだ灰色の目をした親切な隣席の痩せた老人にも、もちろん私にさえにも、次の探査ダイブまで6年も待たなければならなくなるとは、その時、誰に予測できただろうか。
(*月刊ダイバー2013年4月号「世界レック遺産4」への寄稿原稿の原文です)
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天皇からの手紙
http://dirtech.exblog.jp/20476920/
2013-05-22T09:41:00+09:00
2013-05-22T12:44:04+09:00
2013-05-22T09:42:01+09:00
dirtech
"快刀乱麻"
減圧ガスを甲板から直接送られる酸素に切り替えて2分も経った頃、なぜか呼吸が渋い。周囲を見ると全員が同じ様に感じているようだ。マスク越しに4人が目を合わせると、肩をすくめて笑っている。いや、この状況を楽しんでいる、と言った方がよい。誰が言い出すともなく、それぞれが、左に抱えたままのナイトロックス50に再びガス交換し、ポケットからウエット・ノートを取り出して、酸素が使えない場合の予備の減圧プランを確認し始めた。万が一ナイトロックス50が不足するようなことになれば、緊急を意味する「黄色」のサーフェス・マーカー・ブイ を上げればいい。われわれは「ラッグス」のすぐ下にいるのだから。
スービックのレストラン『ヴァスコズ』に隣接する「海事博物館」には、一振りの軍刀と銃床の朽ちた三八式小銃、そして一枚の日本語の手紙がある。菊花紋章の付いた刀と小銃は、1944年にコロン湾で沈んだ旧日本帝国海軍の水上機母艦『秋津州』 から引き揚げられたものだ。博物館を所有するグレッグとブライアンのオーストラリア人父子は腕の良いサルベージ・ダイバーで、1960年代初期から80年代にかけて、フィリピン近海の中国の交易船やスペインのガレオン船を探査し、その当時の資料がこの博物館に展示されている。そしてそれらの積荷や難破船の何隻かを引き揚げてフィリピンの近代水中考古学に貢献し、さらに太平洋戦争末期に多くの日本船が沈んだカラミアン諸島のコロン湾でも活躍した。
父のグレッグは『秋津州』から引き揚げた軍刀と三八式小銃を一度は宮内庁に返還した。軍刀と銃は再び発見者のグレッグに戻されたが、日本語の手紙は、彼のその行為に対する昭和天皇からのお礼の手紙であった。艦名の「秋津州」とは「日本書紀」に登場する言葉で、元来「本州」を意味し、転じて「日本」の別名となる。他に例のない異形の戦闘艦に「日本」そのものの名前をつけた理由は、その特異な存在を世界に誇示しようとしたのか。熱帯の海底から故郷に帰還した菊の紋章の付いた刀と銃を受け取った天皇が、その時どんな感慨を持ったのか、戦争を知らない私にはうかがい知る由もない。しかし海事博物館でその軍刀と三八式小銃、昭和天皇がしたためた手紙を見た時、そのコロン湾に、錆びた刀と朽ち果てた小銃の持ち主が永眠する『秋津州』というシップ・レックに、私は潜らなければならないと思った。
2007年11月17日の夕刻、バタンガス港から我々9人のダイバーは、パラワン島の北、カラミアン諸島を目指して、全長27mの深紅に塗装されたクルーズ船「ラッグスⅡ」に乗り込んだ。ラッグスは、フロント・ブリッジとダブル・アウトリガーの『秋津州』に劣らないユニークな型の船だ。9人は、ロサンゼルス、ホンコン、イェテボリ、ソウル、マニラ、バンダリスリブガワン、ロンドン、そして“トゥキョウ”からと多彩で、まさにこの船の名前 に相応しい。通称「コロン湾」と呼ばれる海域は、正確にはカラミアン諸島を構成するブスアンガ、クリオン、コロンの3つの島に囲まれた水域を指す。これらの島々は、切り立った石灰岩の高い崖に囲まれ、したがって穏やかで水深もあり、自然の港として大型船が停泊する条件が整った“大きな湾”なのだ。
1994年9月の朝、彼女は沈んだ。第2次世界大戦末期に劣勢となり、マニラからコロン湾に退避した日本の輸送船団18隻は、アメリカ合衆国艦隊第38機動部隊から飛び立った180機のF6F“ヘル・キャット”戦闘機とSB2C“ヘル・ダイバー”急降下爆撃機の攻撃によって、わずか数時間で全滅した。「オリンピア丸」、「興業丸」、「極山丸」、「おきかわ丸」、「太栄丸」など、多くは軍の輸送船として徴用された民間の船の中で、給糧艦「伊良湖」と『秋津州』は帝国海軍の艦船であった。とりわけ『秋津州』は、当時世界最大の水上機、二式飛行艇を吊り揚げて搭載する、世界でも貴重な目的と機能を備えた艦船であった。迷彩色に化粧した彼女は1941年7月に進水した、全長115m、排水量4,650t、8,000馬力のディーゼル4基2軸を持つ、世界初の水上機母艦である。正式に帝国海軍に配属されて以来、2年に渡りラバウル、サイパン、チューク、ソロモンと転戦したが、最後に乗員540名と1944年9月5日に佐世保港を出て、その19日後に短い彼女の戦歴を閉じた。
船尾の飛行艇を吊り揚げる大型の35tジブ・クレーン で、すぐに『秋津州』だと分かる。水深は30m。左舷を下に、ほぼ形をとどめて彼女は眠る。横倒しのクレーンの前方甲板付近に、船幅を横断するように甲板がめくれ上がって大きな“亀裂”が走り、その周囲には珊瑚の瓦礫のように機銃弾が散乱している。船外にタイ・オフして、内部侵入の入口である“亀裂”に向かうジャンプ・ラインの脇には2本の減圧シリンダーがステージされている。カリフォルニアの日系自動車関連企業に勤めるケヴィンとボーイング747旅客機の機長のパズだ。事前に打ち合わせた通り、途中で彼らと交差することを予想して、狭いエンジン・ルームにペネトレーションする気持ちの準備を始めた。入口となる甲板の亀裂の前で、私は心の中で、軍刀と小銃の持ち主へ、そして亡くなったすべての乗員に黙祷を捧げ、目を閉じて頭を下げた。
最後の減圧を終えたわれわれ4人が船に上がって、甲板の7,000Lの親瓶から直接送っている減圧用酸素がすぐに途絶えたことを船長のフランク告げると、「ラッグス」のオーナーでもある彼は笑いながら“陽気”に謝る。
「ゴメン、君らが潜っている間に、クルーに酸素シリンダーの交換を指示するのを忘れてた!」
だが、オージィ のフランクを責めるダイバーは誰もいない。「まいったよね」くらいの苦笑いで、心の底から気持ちよくさばけている。閉鎖環境のレック・ダイビングは、いやオープン・ウォーターであったとしても、ダイビングそのものが、想定可能な、あるいは予測不可能な危機さえも、すべてを自分の責任で引き受ける“遊び”であることをよく知っているからだ。
(※月刊ダイバー2013年3月号「世界レック遺産3」の寄稿原稿の原文です)]]>
ニューヨーク・スケッチブック
http://dirtech.exblog.jp/20113778/
2013-03-08T10:48:00+09:00
2013-05-22T10:06:47+09:00
2013-03-06T16:45:04+09:00
dirtech
"快刀乱麻"
車でノース・ルソン・ハイウェイを北上し、途中SCTEX(スービック・クラーク・ターラック・エキスプレスウェイ)に乗り換えて西に向かうと、マニラから2時間でオロンガポ州スービックに着く。今では自由貿易特区として栄える街となったが、かつては米海軍が駐留し、近隣のクラーク空軍基地とともに東西冷戦とベトナム戦争時代にはアジアの重要な戦略拠点として機能していた。
ベトナム戦争が終わり、80年代後半にそれら2つの基地が撤退し、現在はマニラ首都圏に住む人々の週末の観光地として賑わう。ちょうど東京近郊に住む人にとっての伊豆や箱根に近い存在と言えるだろう。観光地と言っても、ダイバーには潜るべき理由のあるダイブ・サイトがなければ、毎年通うことなどはない。そう、スービック湾はレック・ダイビングを楽しむ場所として、そしてテクニカル・レック・トレーニングとその経験を積むにはもってこいの場所なのだ。
水底に厚く堆積した火山灰で、お世辞にも透明度が高いとは言えない湾内には複数のレックが点在する。艦船の種類、サイズ、水深、損壊の状況、安全度、つまり潜在する危険の度合いに応じてダイバーの様々な要求に応えてくれる。技量、知識、経験、胆力などレック・ダイバーとして高い熟達度を試される「USSニューヨーク」を筆頭に、深度18mの輸送船「エル・カピタン」、30mに沈む戦車揚陸艦「LST」 、さらにレック・ダイビング・スキルの最初の手ほどきを受けるのに最適な、ホテル「ヴァスコス」のレストランのすぐ目の前の水深8mに沈めた双発ジェット輸送機「コンヴェア340」など、ビギナーから経験豊かなレック・ダイバーまで飽きさせることがない。したがってアメリカ海軍駐留時代には、これらの沈船群がUDT やネイビーSEALs の演習場として使われることもあった。
“USS”という艦船接頭辞は、”United States Ship”の略、「アメリカ合衆国の艦船」を意味する。憧れのアメリカの都市名を持つ米海軍戦闘艦USSニューヨークは、1891年にフィラデルフィアで進水した全長115m全幅20m総排水量8,150t、500名を超える乗員と指揮官が搭乗する当時最新鋭のCA-2型重巡洋艦である。
USSニューヨーク号はアメリカ・スペイン戦争を振り出しに、第1次世界大戦、途中、サラトガ、ロチェスターと2度の改名を経て、第2次世界大戦開戦直後のクリスマスにスービックの港でその数奇な運命を閉じることになる。1941年12月25日、アメリカ太平洋艦隊旗艦まで務めた長い戦歴と無傷を誇った彼女は、真珠湾の勝利の勢いに乗って太平洋を南進する旧日本帝国海軍の手に渡らないように、シンガポールに撤退するアメリカ海軍自身の手で仕掛けた3発の爆薬によって、南国の冬の夕焼けに染まるスービック湾の中央に沈んだ。
建造後120年、沈没後70年を経過した今も、彼女はひっそりと水深27mの水底に眠る。1991年のピナツボ火山の大噴火によって10m以上の厚さに堆積した火山灰の海底に、左舷を下にした横倒しの状態で、艦橋の前後に装備した8インチ2連装回転砲塔の半分まで泥に埋没させてダイバーを迎える。
潜降して水深23m、後部甲板の8インチ砲身のすぐ上で、バディのファーグが先に残圧計を確認した。80cf ツィン・シリンダーの残圧は共に190Barある。前もって打ち合わせたロック・ボトム の40Barを差し引く。ターンプレッシャー の100Barをお互いに手信号で伝え、すぐに予備のライトと2本のナイフ、スプール とノートのある場所、背中の3カ所のシリンダー・バルブが開いていることを確認する。私が「俺たちのSCR ならこのペネトレーションを15分は楽しめる」と計算している間に、ファーグは左腿のポケットからスプールを取り出してジャンプ・ライン の始点を一抱えもある8インチ砲の砲身に巻き付け始めた。
今日のライン・マンは英国人の彼が務める。ファーグは振り返りながらライトで私に合図を送り、ラインを引きながら砲身の下の開口部に侵入した。私は少しだけ距離に余裕を持たせて後に続き、彼がタイ・オフ した箇所を確認しながらさらに進む。少し後ろから間合いをとり、直径5mmほどのクレモナ製のパーマネント・ラインにジャンプ・ラインを連結しているファーグの手許をライトで照らしてサポートした。
内部に入るとすぐに、体をひねって前屈しなければ通過できない、ドアに阻まれた狭い通路に出る。通過した後、いつもの手順通りに左のシリンダー・バルブを触って閉じる方向に動いていないかをチェックする。先頭のファーグは、パーマネント・ライン沿いに、フィンを使わずフィンガー・クロールだけで無音のグライダーのように移動する。私は、“モワッ”としたベージュのインクが漂う視界の中を、先行する彼のライトが放つ滲んだ光の後を追う。目を閉じて「ゆっくりと、落ち着いて呼吸を保て、左手に感じるラインの感触に意識を集めろ」と自分に言い聞かせた。
狭い通路の移動の後、目的のエンジン・ルームに到達する。ファーグは楽しみの内部散策のために、もう一つスプールとアローを取り出してセーフティ・ラインを用意した。「OK、準備は万端だ、行こうぜ相棒」ダイバーがほとんど入ることのないチャコール・ルーム で遊んでいると、突然、自分たちの排気泡で、上から赤錆び混じりの大量のシルトが降り注いで視界ゼロとなる。いつもより1オクターブ高いキィで“ドコッ、ドコッ”と鳴り響く心臓の鼓動を聴きながら、ラインを維持したまま反転して、タッチ・コンタクトとバンプ・アンド・ゴー で出口に向う脱出行が始まる。
テクニカル・レック・トレーニング、すなわち内部侵入と加速減圧を伴う沈船ダイブ・トレーニングは、ダイバーに豊富で様々な経験を積ませ、スキルを研ぎ、チームの統合意識を鍛え、そして洞察力と状況判断力を育てる。とりわけ彼女は戦闘艦であるが故に、肉厚の鉄鋼で鍛えた頑強な構造をもち、通路は狭く複雑に入り組み、内部は錆びた金属の突起物や瓦礫が散乱し、加えて堆積した火山灰に埋れた濁り易い環境なので格別である。
ファーグと私は、USSニューヨークへのペネトレーション・ダイブだけで27回目のバディを組む、気心の知れたチームだ。我々は予備の脱出口に出て、右舷側の深度18mに常設した係留ラインにステージした酸素シリンダーを回収して浮上を始めた。6mで予定通りの加速減圧を終えた頃、過去の熾烈な戦闘で命を落とした先人達に、無言で鎮魂の言葉を贈った。
(※月刊ダイバー2013年2月号「世界レック遺産2」への寄稿記事の原文です)
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楽園のアルマジェーン
http://dirtech.exblog.jp/20122053/
2013-03-08T10:47:00+09:00
2013-03-08T10:47:24+09:00
2013-03-08T10:46:47+09:00
dirtech
"快刀乱麻"
MV2アルマ・ジェーンは、プエルト・ガレラの沖合 100m ほどの潮通しがよく、 透明度の高い平均水温 27°Cの熱帯の海に沈んでいる。水深 30m の白い砂地に船 首をほぼ北に向けて静かに船底を沈める。船首のマストは祈るように真っ直ぐ 銀色の水面を指し、聡明な少女のように凛々しい。
彼女は 2003 年 4 月に沈んだ新しい船だ。正確に言えば、この地域のビーチで営 業する 30 余りのダイビング・サービスと地元のバランガイ3のプロジェクトで “沈めた船”である。世界各地からここを訪れるダイバーに、手軽にレック・ ダイブを楽しませる目的で沈めたのだ。したがってアルマ・ジェーンは、ダイ バーの安全と自然環境に配慮して、燃料、スクリュー以外のエンジンと駆動部 分、航法機材、居住区内の艤装と船体内部の構造物を取り払って沈められた。 だが人為的に沈めた船だといって彼女を侮ってはいけない。全長 30m 高さ 10m 重さ約 80t の贅肉を削ぎ落とした彼女の引き締まった船体は、やがてソフト・ コーラルがびっしりと着いた格好の魚礁となり、そして今では魚達の棲処とな った。
水面のブイから常設ラインに沿って潜降する。すぐに貨物船としては小柄なア ルマ・ジェーンの全景が現れる。潜降ラインを舫った後部甲板の水深は 24m だ。 姿勢を水平に維持して浮いたまま、所定の手順を踏んで、減圧シリンダーを甲 板上に置いた。
ほんの少しだけ浮力を減じるために、左手を後ろに回してウィング型BCDの底 にある排気バルブを指で探る。バルブのラインを指でつまみ、わずかに引いて 排気し、船尾にある約 2m 四方のカーゴ・ホールから静かに中に入る。内部の 高さはおよそ 2m。幅はダイバーが 3 人並列に移動できる広さだ。両舷と天井の 所々に設けた開口部から差し込む熱帯の太陽光は、碧い水のフィルターを通っ て、伽藍洞の船体内部をわずかに蒼く照らし出す。あえてフィンガー・クロー ル4やシャッフル・キック5を使わなくてもシルト・アウト6する事はまずない。 先に入ったトレーナーのサムが向き変えて、私にバルブ・シャットダウン・ド リル7の合図を送る。そうだった。このダイビングは私の技量評価のためのチェ ック・ダイブなのだ。いつものように水平姿勢で中層に浮いたまま、正面近く の床の一点に視標を定めて呼吸パターンを維持することに意識を集中した。
その後、彼女とは幾度となく逢瀬を重ねたが、いつも機嫌良く私の相手をして くれたわけではない。ベルデ島を挟んだルソン島とミンドロ島の間を抜ける狭 いマニラ・パスは、潮周りと風向きにより熟練したダイブ・ガイドやボートマ ンでさえ読み切れない流れを作り出す。時には思わぬ潮に出会い、ドリフトし ながら中層で計画通りの減圧を終えた結果、2km 先まで流されたこともある。 とは言え、回遊魚やサメに出会うチャンスもある減圧しながらのブルー・ウォ ーター・ダイブもエキサイティングだ。
フィリピンに行く事があれば、ぜひ彼女に会いにプエルト・ガレラに脚を伸ば してほしい。レック・ダイビングは、無条件に誰にでも安全とは言えない。レ ック・ダイブ特有の必要な装備を整え、スキルを磨き、危機回避の方法を学ぶ コースから始めてほしい。そんなダイバーになら、楽園のアルマ・ジェーンは いつでも楽しく遊び相手をしてくれる。
(※月刊ダイバー2013年1月号「世界レック遺産1」への寄稿記事です)]]>
気紛れな彼女
http://dirtech.exblog.jp/19458838/
2012-11-08T15:07:00+09:00
2012-11-09T14:32:42+09:00
2012-11-08T15:02:56+09:00
dirtech
"快刀乱麻"
トリムを維持してホーバリングのまま、左脇に抱えた40cfのアルミ・シリンダーを左手で触る。シリンダーには浮上時に呼吸する減圧用のEANx50が充填されている。その手を後ろに大きく風車のように上から廻してシリンダーと身体の隙間に入れて、ハーネス・ベルトのヒップDリングに止めた減圧シリンダーのボトム・クリップを外す。そのまま手をシリンダー沿いにバルブの方に移動させ、左肩のDリングに掛けたトップ・クリップを外して手に持ったまま、身体の正面に持ってくる。右手でシリンダーのバルブを少し開けて残圧が150Barある事を確認し、再び閉じて減圧用レギュレーターに圧をかけた状態のままにする。レギュレーターのホースを整理して、2本のゴム製のホース・リテイナー・バンドに挟み直す。流れの影響を受けない場所を選んで減圧シリンダーを甲板上に置いた。これら一連の作業の流れは、シリンダーをステージする時の、いわば私の儀式のようなものだ。
後甲板に2カ所あるカーゴ・ホールの船尾寄りの入口から中に入る。対面した私のトレーナーからバルブ・シャットダウン・ドリルの合図がでる。トリムを維持して一点に視標を定め、呼吸パターンを等間隔に保つことに意識を集中する。これから私が自分でバルブを開閉する練習ドリルを始めるハンド・シグナルをトレーナーのサムに送る。
左手のキャニスター・ライトをゆっくりと左右に振って、私に注意を向けるようにサムに促す。顎の下にバンジー・コードで下げたショート・ホースのバックアップ・セカンド・ステージのパージ・ボタンを右の人差し指で少し押す。呼吸ガスが出ることを確認し、正面のサムのライトを視点にし、右手の平を右耳に沿って後ろに伸ばし、いつもの手順通り右シリンダーのバルブ・ハンドルを探りはじめた。
彼女との付き合いは長いが、時にはチャーミングでコケティッシュな女性特有の気紛れを起こすこともある。ベルデ島を挟んだルソン島とミンドロ島の間を抜けるマニラ・パスは、潮周りと風向きにより熟練のダイブ・ガイドや地元のボートマンでさえ読み切れない流れを作り出す。
潮汐表からその日も潮が少し走る事を予想して、私達3人は常設ブイの潮上から充分に距離をとってほぼ同時にエントリーした。水面で全員を確認してすぐに潜降する。しかし水深5mほどで、水面とは違う向きの強烈な潮に流され、ラインを通過してしまう。私は力いっぱいキックして下に落ちながらラインに向かう。振り返ると2人の姿がマスクの視界に入る。そのままラインに取りついて潜降を続け後甲板に降りた。2人の姿が無い。左手に持ったグッドマン・ハンドルのHIDライトを水面に向け、彼らの目印にするが誰も降りて来る気配がない。中層から俯瞰して潮の下手の船首側に向かうがやはり確認できない。
しまった、ロストだ。
深度20mのマスト付近からブルー・ウォーターに離脱して、手順通り水面で合流することを目指して中層を流れながら浮上を開始する。2人が一緒なら良いが、と願いながら、すぐにボートの指標となるようにマーカー・ブイを打ち上げる。親指と人差し指で挟まれて回転するスプールから斜めに勢い良くラインが出てゆくのを見て、全員が単独潜水になったのではないかと、嫌な憶測が心をよぎる。呼吸が早まり心臓の鼓動が激しく打つ音を聞く。
その時。潮の下手を捜す私の目が、前方遠くにライトが揺れる光をかすかに捉えた。よし。マーカー・ブイのスプールをダブル・エンダーでロックして捨てる。後で水面を捜索して拾えばいい。運が良ければだが。
一瞬見えた光に向かって潮に乗り、一気に泳いだ。
安全停止を終えて3人で水面に顔を出す。声を上げて笑い、お互いをなじり合う。捨てたサーフェス・マーカー・ブイはすでに回収されてボート上にあった。ボートマンは我々を見失わず西に2km先までフォローしたのだ。]]>
PADIテクニカル・サイドマウント・ダイバー
http://dirtech.exblog.jp/19432342/
2012-11-04T20:24:00+09:00
2024-03-07T15:37:12+09:00
2012-11-04T20:24:21+09:00
dirtech
テックサイドマウント
このコースは、PADI サイドマウント・ダイバーが、テクニカル・ダイビングの分野でサイドマウ ント・ダイビングを行なえるように、またはテク ニカル・ダイバーが、サイドマウント・コンフィグ レーションでテック・ダイビングを行なえるようになることを目的に設計されています。
コースは、減圧停止不要で最大深度を 30m まで に制限し、サイドマウントと複数本のデコ/ステ ージ・シリンダーの取り扱いの習熟に焦点を合わせる、テクニカル・サイドマウント・ダイビング・コフィグレーションの考察とマルチ・シリンダーを取り扱うスキルの開発が中心です。
参加前条件
・PADIアドヴァンスド・オープン・ウォーター・ダイバー
・PADIサイドマウント・ダイバー
・30 ダイブ以上の経験
・満18歳以上
必要器材
・フィン、マスク
・適切な保護スーツとそのアクセサリー
・サイドマウント BCD
・ダイドマウント用レギュレーター1セット
・デコ用レギュレーター×2 台
・ダイブコンピューター
・SMB とスプール
・ナイフまたはカッティングツール
※BCD とレギュレーター、その他の器材について、不明な点やさらに詳細な情報が必要な場 合はお問い合わせください
※サイドマウントBCDをご用意下さい。
コースの構成:最短 2 日
・プールまたは制限された海洋ダイブ:1回
・海洋ダイブ:3回
コースにかかる費用
・コース費用...¥88,000-
※最小催行人数: 2 人から
※個人レッスンの場合:¥22,000-の追加で申し受けます。
料金に含まれないもの
・食事、宿泊(必要な場合)、海洋ダイブ現地への往復交通費用、施設利用、入海料など
・器材のレンタルが必要な場合は、別途レンタル料が必要です。
ご用意いただくもの
・認定カードまたはその両面コピー
・証明書用カラー写真 1 枚(3cm×4cm)]]>
PADIテクニカル・サイドマウント・インストラクター
http://dirtech.exblog.jp/19432450/
2012-11-04T20:00:00+09:00
2024-03-07T15:43:55+09:00
2012-11-04T20:38:43+09:00
dirtech
テックSMインストラクター
参加前条件
1. PADI OWSI以上の資格
2. PADIエンリッチドエア・スペシャルティインストラクター
3. PADIディープダイバー・スペシャルティインストラクター
4. PADIテックサイドマウント・ダイバー
5. PADIテック45ダイバーまたは同等の資格
6. 100ダイブ以上の経験で:
※EANxダイブを20ダイブ
※18m以上の経験を25ダイブ
※30m以上を経験15ダイブ
資格申請条件
1. PADIテック・インストラクター以上の資格
2. PADIテックサイドマウント・インストラクターコースを修了
3. 20ダイブ以上のテクニカルサイドマウントの経験で:
※3シリンダー以上の経験を10ダイブ
必要教材
PADIテックサイドマウント・インストラクターガイド
必要器材
1. フィンとマスク
2. 適切な保護スーツとそのアクセサリー
3. サイドマウント用BCD
4. 2シリンダー・サイドマウント仕様のレギュレーター1セット
5. デコ用レギュレーター2台
6. ダイブコンピューター
7. コンパス
8. ナイフまたはカッティングツール
9. 水中ノート/スレート
10. SMBとスプール/リール
11. サイドマウント用リグ×2セット
12. ダブルエンダー×2本以上
13. リーシュ/ループ・スナップ
コースの構成:最短日数2日
1. 2回の知識開発プレゼンテーション(3.4以上)
2. 13項目のスキル評価(各スキル4.0以上)
3. 2回のCWプレゼンテーション(3.4以上)
4. 2回のOWプレゼンテーション(3.4以上)
コースフィ¥88,000-(税込)
含まれないもの
1. 参加者のシリンダーレンタル、ガス充填、施設利用料などのダイビング費用実費。
2. トレーナーのダイビング費用と交通費はコース参加者で案分して負担ください。
3. 食事、宿泊(必要な場合)、海洋ダイブ現地への交通費。
4. 器材のレンタルが必要な場合は、別途レンタル料が必要です。
5. インストラクター資格申請料
ご用意いただくもの
1. 認定カード
2. 証明書用カラー写真1枚(3cm×4cm)]]>
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