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気紛れな彼女

MVアルマ・ジェーンはザ・ポイント・ピアの北の沖に沈んでいる。彼女の居場所を示す常設のブイからラインに沿って潜降すると水深24mの後部甲板に到着する。

トリムを維持してホーバリングのまま、左脇に抱えた40cfのアルミ・シリンダーを左手で触る。シリンダーには浮上時に呼吸する減圧用のEANx50が充填されている。その手を後ろに大きく風車のように上から廻してシリンダーと身体の隙間に入れて、ハーネス・ベルトのヒップDリングに止めた減圧シリンダーのボトム・クリップを外す。そのまま手をシリンダー沿いにバルブの方に移動させ、左肩のDリングに掛けたトップ・クリップを外して手に持ったまま、身体の正面に持ってくる。右手でシリンダーのバルブを少し開けて残圧が150Barある事を確認し、再び閉じて減圧用レギュレーターに圧をかけた状態のままにする。レギュレーターのホースを整理して、2本のゴム製のホース・リテイナー・バンドに挟み直す。流れの影響を受けない場所を選んで減圧シリンダーを甲板上に置いた。これら一連の作業の流れは、シリンダーをステージする時の、いわば私の儀式のようなものだ。

後甲板に2カ所あるカーゴ・ホールの船尾寄りの入口から中に入る。対面した私のトレーナーからバルブ・シャットダウン・ドリルの合図がでる。トリムを維持して一点に視標を定め、呼吸パターンを等間隔に保つことに意識を集中する。これから私が自分でバルブを開閉する練習ドリルを始めるハンド・シグナルをトレーナーのサムに送る。

左手のキャニスター・ライトをゆっくりと左右に振って、私に注意を向けるようにサムに促す。顎の下にバンジー・コードで下げたショート・ホースのバックアップ・セカンド・ステージのパージ・ボタンを右の人差し指で少し押す。呼吸ガスが出ることを確認し、正面のサムのライトを視点にし、右手の平を右耳に沿って後ろに伸ばし、いつもの手順通り右シリンダーのバルブ・ハンドルを探りはじめた。

彼女との付き合いは長いが、時にはチャーミングでコケティッシュな女性特有の気紛れを起こすこともある。ベルデ島を挟んだルソン島とミンドロ島の間を抜けるマニラ・パスは、潮周りと風向きにより熟練のダイブ・ガイドや地元のボートマンでさえ読み切れない流れを作り出す。

潮汐表からその日も潮が少し走る事を予想して、私達3人は常設ブイの潮上から充分に距離をとってほぼ同時にエントリーした。水面で全員を確認してすぐに潜降する。しかし水深5mほどで、水面とは違う向きの強烈な潮に流され、ラインを通過してしまう。私は力いっぱいキックして下に落ちながらラインに向かう。振り返ると2人の姿がマスクの視界に入る。そのままラインに取りついて潜降を続け後甲板に降りた。2人の姿が無い。左手に持ったグッドマン・ハンドルのHIDライトを水面に向け、彼らの目印にするが誰も降りて来る気配がない。中層から俯瞰して潮の下手の船首側に向かうがやはり確認できない。

しまった、ロストだ。

深度20mのマスト付近からブルー・ウォーターに離脱して、手順通り水面で合流することを目指して中層を流れながら浮上を開始する。2人が一緒なら良いが、と願いながら、すぐにボートの指標となるようにマーカー・ブイを打ち上げる。親指と人差し指で挟まれて回転するスプールから斜めに勢い良くラインが出てゆくのを見て、全員が単独潜水になったのではないかと、嫌な憶測が心をよぎる。呼吸が早まり心臓の鼓動が激しく打つ音を聞く。

その時。潮の下手を捜す私の目が、前方遠くにライトが揺れる光をかすかに捉えた。よし。マーカー・ブイのスプールをダブル・エンダーでロックして捨てる。後で水面を捜索して拾えばいい。運が良ければだが。

一瞬見えた光に向かって潮に乗り、一気に泳いだ。

安全停止を終えて3人で水面に顔を出す。声を上げて笑い、お互いをなじり合う。捨てたサーフェス・マーカー・ブイはすでに回収されてボート上にあった。ボートマンは我々を見失わず西に2km先までフォローしたのだ。
by dirtech | 2012-11-08 15:07 | "快刀乱麻"